やさしい解説
大正3年(1914年)1月11日に、袋井から横須賀までをつなぐ、「中遠鉄道」という軽便鉄道が開通しました。
軽便鉄道は、「かんたんに造れるべんりな鉄道」という意味です。法的に、簡単に敷設できるもので、地域の交通や流通を担うために、日本全国で作られました。
軽便鉄道の列車が停まる場所には、人が乗り降りするだけの「停留場」と、貨物の積み下ろしができる「停車場」がありました。
袋井の柴には、はじめ、人が乗り降りするだけの「停留場」がありましたが、中遠鉄道が開通した翌月の2月ころから、柴停留場を大きくしてもらって、貨物を積み下ろしできる「停車場」にしてもらおうという運動が始まりました。
「柴停車場記」は、地域の人たちの念願が叶い、柴停車場ができたことを記念して、大正4年(1915年)4月に建てられた石碑です。柴停車場の跡地に建っています。
中遠鉄道という、かつて袋井-横須賀間をつないでいた軽便鉄道の、柴停車場跡に、「柴停車場記」という石碑が建っています。
軽便鉄道とは、法的に正確な言い方をするのならば、「軽便鉄道法に基づいて敷設された鉄道」です。
時折、軌間(線路の幅)が762mm(2フィート6インチ)の鉄道が軽便鉄道だ、とする説明を目にしますが、それは誤りです。
「軽便鉄道補助法」(明治44年3月21日 法律第17号)第2条には「補助ヲ為スヘキ軽便鉄道ハ二呎六吋以上ノ軌間ヲ有スルモノニ限ル」とあり、軌間762mm以上と定義されています。
実際に、軽便鉄道法に基づいて敷設された軽便鉄道には、日本の標準軌間1067mmで建設されたものも多いようです。
では、なぜ軽便鉄道が造られたのでしょうか。
明治39年(1906)の鉄道国有化によって、主要私鉄17社が政府によって買収され、国有鉄道になりました。政府の考えでは、主要な鉄道を国有鉄道とし、地方の交通は私鉄に任せようとしていたのですが、国有化により、残された私鉄は短小路線ばかり。路線延長50kmをこえるものは、東武、中国、成田、南海の4鉄道のみでした。
これでは地方鉄道が供給できない。
また、鉄道国有化以降、なぜか新たな私鉄出願は極端に減少していました。
なぜ?
そして政府は気付きました。私設鉄道法は、厳しすぎるのではないか。
私設鉄道法は全部で98条もあります。当然、試験も厳しいものでした。
そこで、政府は、明治43年(1910)4月に「軽便鉄道法」(明治43年4月21日 法律第57号)を公布しました。どんどん鉄道を敷設してもらって、地方交通を充実させて、という訳です。「軽便」は「かんたんべんり」という意味で、「私設鉄道よりも簡単に敷設できる鉄道」の意味です。
軽便鉄道法はなんと全8条。これならなんとか合格できそうです。こうして、明治末から大正初年にかけて、全国的に軽便鉄道ブームが起こりました。
この軽便鉄道ブームの中で計画されたのが、今回の主役中遠鉄道です。その前史から説明します。
明治43年(1910)4月21日に公布された軽便鉄道法を受け、この年の12月15日に、「駿遠鉄道敷設許可願」が提出されました。
念のために言っておくと、駿遠鉄道株式会社は、静岡鉄道駿遠線とは無関係です。名前が似ているだけの別会社です。
駿遠鉄道株式会社は、中遠鉄道や藤相鉄道など、静岡鉄道の母体となった軽便鉄道ができるきっかけになった軽便鉄道敷設計画ですが、いずれも、駿遠鉄道に対抗するために立ち上がった計画のため、駿遠鉄道は、軽便鉄道敷設の邪魔をした悪役、のような扱いを受けています。
そのためか、はたまた静岡鉄道駿遠線と名前が似ていて紛らわしいためか、駿遠鉄道株式会社については、これまであまり言及されていません。駿遠鉄道株式会社について最も詳しいのは、藤枝市郷土博物館編『懐かしの軽便鉄道 いまむかし』(2001年)で、悪役扱いではありますが、『藤枝市史』とあわせて、かなり詳しく紹介しています。
駿遠鉄道は、焼津を出発し、新横須賀を経由して中泉に接続する予定でした。
藤相鉄道の予定線は、駿遠鉄道の予定線とほぼ重なるのですが、細かな点で違いがあり、その差が、利害関係のある地域の差です。
中遠鉄道の場合は、新横須賀から先が大きく違っていて、駿遠鉄道が西へ伸びて中泉につながるのに対し、中遠鉄道は北に延びて袋井駅に接続します。
駿遠鉄道株式会社は、東京在住の守山某なる会社の大株主が、払込みをせずに姿をくらます、会計の不正が見つかるなどの不祥事が相次ぎ、大正7年(1918)に軽便鉄道免許を失効してしまいます。
ですが、注意すべきは、必ずしも駿遠鉄道がデタラメな会社では無かった、歴史の悪役ばかりではなかったらしい、ということです。計画が立ち上がり、敷設予定地と交渉をしていた頃は、地域の発展にも関わる重要な事業として存在していたようです。それは、地域に残る、会社と村とのやりとりからうかがえます。
とはいえ、今回は駿遠鉄道が主役ではないので、中遠鉄道に話を戻します。
紆余曲折あり、大正3年(1914)1月11日に、中遠鉄道の開通式が行われ、翌日営業を開始しました。
ここから「柴停車場記」につながってきます。
中遠鉄道竣工の調査に来た、鉄道省技師小池駸一の復命書を見ると、中遠鉄道が開通した当初、3つの停車場と6つの停留所があったことが分かります。そしてその中に、柴停留所もあります。
また、この復命書の記述から、停留所は乗降場があるのみでその他の設備がなく、停車場には、貨物の運び込みに関わる設備があったことが分かります。
中遠鉄道の開通後に、「柴停車場記」に書かれた「有志諸氏」が、停車場を造ってもらおうと活動していた理由が、ここから分かります。
「柴停車場記」にあったとおり、浅羽の農作物を運搬したい。そこで、開通時の停留所を拡大し、貨物の運び込みができる停車場にしてほしい、というわけです。
関連記事が、浅羽常設委員の『議事録』に残されています。『議事録』大正3年(1914年)2月10日条には「一、軽便鉄道停車場設置スルコトヲ会社ニ向テ請求スルコト」とあります。中遠鉄道の開通式が1月11日ですから、その1ヶ月後までには活動を開始していたようです。
同『議事録』大正3年(1914年)2月18日条には「柴停車場設置ニ付、大字浅羽ヨリ金壱百五拾円寄附スル事ヲ承認ス」とあり、柴停車場設置に向けて、大字浅羽からも150円(当時の150円はけっこうな大金です)を寄付することになった、と言っています。
実際、「柴停車場記」の裏面には、寄付金額の最高額ではありませんが、寄付者筆頭の位置に「金壱百五拾円大字浅羽」とあります。
【参考文献】
1、野田正穂・原田勝正・青木栄一・老川慶喜編『日本の鉄道――成立と展開』(日本経済評論社、1986年)。
2、浅羽町史編さん委員会編『浅羽町史 資料編三 近現代』(浅羽町、1997年)。
3、森信勝『静岡県鉄道興亡史』(静岡新聞社、1997年)。
4、岡本憲之『全国軽便鉄道 失われたナローゲージ物語300選』(JTB、1999年)。
5、藤枝市郷土博物館編『懐かしの軽便鉄道 いまむかし』(2001年)。
6、浅羽町郷土資料館編『浅羽町郷土資料館報告 第三集 碑文等調査報告書 記念碑・墓碑・頌徳碑・句碑など 附 梵鐘銘文』(浅羽町教育委員会、2003年)。
7、森信勝『静岡県鉄道軌道史』(静岡新聞社、2012年)。
8、阿形昭『歴史に残す静岡鉄道駿遠線―日本一の軽便鉄道―』(静岡新聞社、2015年)。