遠隔地への義援金
大正3年(1914)1月12日(桜島大正噴火)
やさしい解説
大正2年(1913)秋、冷害や暴風雨による北海道・東北の凶作が明らかになりました。北海道では米の収穫が、平年60万石のところ、わずか5%の3万石になりました。東北では青森県の被害が大きく、収穫が平年の20%、その他各県でも60%程度の収穫でした。
その救済が進められるなか、翌大正3年(1914)1月には桜島が大噴火しました。日本が20世紀に経験した最大規模の噴火です。
東北と九州。この遠隔地で起きた大災害に対して、浅羽では義援金活動が行われました。
浅羽常設委員の『議事録』の大正三年(一九一四)四月十六日条に、以下のような記事があります。
[史料原文]
一、東北凶作地及桜島噴火義捐金本村長ヨリ徴収方依頼申越ニ付、浅羽出金分金拾壱円五拾銭徴収方法ハ、毎戸金参銭ツヽ徴収シ、不足金ハ土木費ニテ出金スルヿ。
東北凶作地と桜島噴火への義援金について、村長(上浅羽村長)から徴収の依頼があったので、「浅羽」(ここでは、合併して上浅羽村になる前の浅羽村=柴・馬場・末永・弥太井のこと)出金分一円五十銭を徴収することにしたが、その方法は、毎戸金三銭ずつを徴収し、不足金は浅羽常設委員の土木費から出金する。およそそのようなことが書かれています。
この記事にはどのような背景があるのでしょうか。
大正2年(1913)秋、冷害や暴風雨による北海道・東北の凶作が明らかになりました。北海道では米の収穫が、平年60万石のところ、わずか5%の3万石になりました。東北では青森県の被害が大きく、収穫が平年の20%、その他各県でも60%程度の収穫でした。
その救済が進められるなか、翌大正3年(1914)1月には桜島が大噴火しました。日本が20世紀に経験した最大規模の噴火です。
このとき、東北凶作・桜島大正噴火被害の復旧・復興に必要な資金は、これまでの災害と同様に国庫からの補助や貸付けなどによって供給されたのですが、それまでの災害の経験から、帝国議会の賛成を得る必要があり、時間がかかる国庫の代わりに、大蔵省預金部の資金がつなぎとして用いられました。
北海道・東北凶作の救済のため、東北選出衆議院議員と東北出身新聞記者が「東北凶作救済会」の設立に向けた準備会を組織していました。
この準備会では、東北出身の原敬内相も働きかけを行い、渋沢栄一、益田孝(三井財閥)らも協力し、東北救済計画を立ち上げていました。東京の新聞社・通信社もその活動に賛同していましたが、桜島噴火が起こったため、「東北九州災害救済会」に変わりました。
「東北凶作救済会」の発起人会を帝国ホテルで開く予定日は1月13日でしたが、その前日、1月12日に桜島が噴火。
13日の発起人会では、渋沢の娘婿で、東京市長、元蔵相の阪谷芳郎から提案があり、会は「東北九州災害救済会」に変更されました(1月15日)。
更に3月15日に仙北地震(死者94人)が発生したため、同会は義捐金の一部をそちらにも回しました。この「東北九州災害救済会」が、民間からの義捐金を取り扱っていました。
上の『議事録』の義捐金も、「東北九州災害救済会」との関係で集められたものではないかと思います。
桜島大正噴火は海外でも報道され、アメリカ、中国、イギリス、アフガニスタンから義援金が寄せられました。
上の地図は桜島大正噴火の前に作られたものなので、桜島が大隅半島とつながっていない。
さて、大正3年(1914)1月!2日に始まった桜島大正噴火は、桜島が大隅半島とつながった大噴火として知られています。
桜島の5つの集落が溶岩流に埋め尽くされ、その他多くの集落が多量の火山灰に埋没、あるいは火砕流で焼失し、噴火が終息するまでに一年数か月を要しました。
桜島は、昔から活動し続けてきた火山として知られています。記録として残る最古の噴火は、和銅元年(708)です。
数多い噴火の中でも、文明噴火(1471年)、安永噴火(1779年)、大正噴火(1914年)の三つが大噴火として知られていましたが、最近の研究で、天平宝字噴火(764年)も同様のタイプの大噴火だったことが分かり、『1914 桜島噴火 報告書』では、この4つの噴火を「4大噴火」としています。
さて、その4大噴火の代表的存在でもある大正噴火ですが、その発生前後に、南九州一帯で様々な変動が起こっていたことで知られています。
桜島大正噴火では、桜島の住民は、135年前の安永地震の経験が語り継がれていたことから、噴火の2日前には一部島民は噴火発生を懸念し、前日には緊迫した事態を察知して、多くの住民が避難行動をとりはじめました。
規模の割には犠牲者が少なかったといいますが、その噴火規模は尋常なものではなく、「噴出物の総量は、1990(平成2)年11月に始まった雲仙普賢岳の噴火の約10倍、富士山の1707年宝永噴火を上回る」(参考文献①p.33)と言われています。
大正2年(1913)の北海道・東北凶作と桜島大正噴火への対応は、過去の災害対応の経験を参考に、同様の対応であっても、規模やスピード、手法をより改善させたもの、と言われています。
【参考文献】
①中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会『1914 桜島噴火 報告書』(2011年)。
②宮城洋一郎「明治三八年東北地方大凶作と「御下賜金」について―宮城県における配付方法を中心に―」(『明治聖徳記念学会紀要』54、2017年)。
③土田宏成『災害の日本近代史 大凶作、風水害、噴火、関東大震災と国際関係』(中公新書、2023年)。