耕地整理の祖
1840年(天保11年)~1911年(明治44年)
やさしい解説 彦島は、3つの河川が合流し、水害が頻発する地域でした。
明治5年、自分の所有する水田50アールを実験田として提供し、けいはん改良を試みました。この改良実験で、水利確保や耕作に便利で、収量増加にも大きな効果があることを示し、村内35.8ヘクタールのけいはん改良事業を一気に成し遂げる契機を提供しました。
これは、日本で初めての耕地整理事業の成功だといわれています。
袋井市 市勢要覧:「郷土の偉人」より抜粋
名倉太郎馬は、江戸時代末の1840年(天保 11 年)、松袋井村(袋井市松袋井)に生まれ、22 歳の時に隣りの彦島村(ひこじまむら)名倉太郎右衛門の養子となりました。1870年(明治3年)、30 歳で村の農家の代表となり、貧しかった村を救うさまざまな活動に取り組みました。特に、稲作に熱心に取り組み、全国各地の先進的な稲作技術をいち早く取り入れて、まず自分の田んぼで実践し、その効果を農家の人々に実際に見せながら伝えていきました。
また、犂(牛馬に引かせて田畑を耕す道具)による耕うんやスジ植えなど、稲作技術の改良を実行に移すために、田んぼや周辺の道路、用排水路・河川の整備に積極的に取り組みました。のちに「静岡方式」と呼ばれたこの耕地整理の区割りは全国に広がりました。
幕末から明治にかけて、彦島村では凶作や水害で貧しさのどん底にありました。太郎馬はこれを何とかしたいと家庭生活と村の改革にも取り組みました。その活動は、生活・風習の改善から稲作技術・田んぼの改良、農閑期の副業(稲藁加工、養蚕など)の導入にまで及び、1911年(明治 44 年)に 72歳で生涯を閉じるまで地域のために活躍しました。
【参考・引用文献】
農業発達史調査会編『日本農業発達史』
袋井市教育委員会 2011『耕地整理の祖 名倉太郎馬』