医は仁なり

1867年(慶応3年)~1910(明治43年)

浅羽佐喜太郎は、1867年(慶応3年)に東浅羽村 ( 現:袋井市梅山 ) に生まれ、帝国大学医科大学( 現:東京大学医学部 ) を卒業した後、前羽村 ( 小田原市 ) 町屋に浅羽医院を開業しました。

佐喜太郎は名医と評判の上、困っている人を見過ごせない性格で、医療費を支払えない患者からはお金をとりませんでした。地域貢献活動にも熱心で、神奈川県立第二中学校の建設や前羽村の消防組第二分団の新設にあたって多額の寄附を行いました。

また、前羽村小学校や国府津村の小学校の校医を委嘱され、子どもたちの健康を守りました。さらに前羽村小学校には風琴 ( オルガン ) を寄贈しています。1910年(明治 43年)8月、郷里の東浅羽村が大洪水に見舞われると佐喜太郎は大変心配していましたが、9月 25 日に病で帰らぬ人となってしまいました。

1912年(明治45年)、亡き佐喜太郎の遺志を継いだ遺族から東浅羽村に義援金が届けられ、村の復興に大いに役立ったと伝えられています。浅羽佐喜太郎は、助けを求めて来る人にはだれでもやさしく、困っている外国からの留学生たちも支援しました。その中にベトナム独立運動の指導者の1人、ファン・ボイ・チャウがいました。

1907年(明治 40) 年、「日仏協約」の締結によって日本はフランスとの結びつきを重視したため、ベトナム人留学生たちは日本国外へ出ることを迫られました。このため日本での活動に行き詰まったファンたちは、佐喜太郎の援助をもとに1909年(明治 42年)に日本を出国しました。しばらくして、佐喜太郎の死を知ったファンは、1917年(大正6年)、墓前に記念碑を建てようと偽名を使って密かに日本に再入国しました。1918年(大正7年)、東浅羽村を訪れ、地元の村人と力をあわせて「浅羽佐喜太郎公紀念碑」を常林寺に建立しました。これで、東浅羽村の人たちも、明治 42 年、明治 43 年の2年続きの大洪水の時に小田原の浅羽家より受けた恩に報いることができたと言えるでしょう。

(柴田静夫 2009『報恩の碑』より)