豊かなくらしのために努力した人
1832年(天保3年)~1913年(大正2年)
やさしい解説 |
1854年、安政の大地震がおこりました。要衛武は大きな被害を受けた地域を復興させるために、アメリカへ輸出されていたお茶に目をつけ、お茶の栽培を推奨しました。 明治時代にお茶は日本を代表する輸出品となり、地域を支える大きな産業に成長しました。要衛武の活動は、浅羽の茶業の基礎になりました。 また、明治14年「浅羽開明社」を設立。地域の銀行として、産業を支えました。そのほかにも、田んぼや学校、道路をつくり、農民の豊かな暮らしの向上に力を尽くしました。 |
柴村の久野安右衛門の次男に生まれた要衛武は、1850年(嘉永3年)19歳で浅羽家の婿養子になった。要衛武は1854年(安政元年)23歳で、柴村代官所に勤め始めた。まず柴原を開墾して茶を植えようと呼びかけたが誰も聞いてくれなかった。要衛武は1人で開墾をはじめ、茶の種を蒔いた。
当初、要衛武の勧めに見向きもしなかった村人も、しだいに要衛武に教わって柴原(浅羽地区一帯)の茶園ができた。幕末のころ芝の東側には何十町歩という湿地帯が広がっていた。ここの排水ができれば、広い水田ができる。横須賀の海に排水しようと考えた要衛武は、横須賀藩へ願い出た。
しかし、柴村は横須賀藩領ではないため許されず、繰り返しの嘆願に藩の役人も排水を許可。湿地帯が良田へと生まれ変わった。
1877年(明治10年)、要衛武は静岡県第11大区(豊田郡・磐田郡・山名郡)の副区長に任命された。要衛武は浅羽の要衛武から、遠州の要衛武になっていった。1879年(明治12年)、茶の栽培に続き養蚕を推奨した。このころ経済自由活発化の波は、要衛武を私立銀行「開明社」設立へと動かす。遠州における私立銀行の先駆けであった。
1882年(明治15年)、要衛武は山名郡選出の県議会議員に進出。さらに1884年(明治17年)には東京に出て各界名士との交友に過ごし、1887年(明治20年)に帰郷。市町村制が施行された翌年の1890年(明治23年)から8年間、東浅羽村長として、社山隧道の掘削事業など、各方面に多くの業績を残した。
(参考)柴田静夫 2000『浅羽町史』