可睡斎護国塔の設計者

1867年(慶應3年)~1954年(昭和29年)

可睡斎護国塔の設計者。慶應3年(1867)10月26日、山形の米沢信夫町(米沢市)に生まれる。伊東家は代々医者の家系であり、祖父はシーボルトの弟子の一人でもあった。5歳の時、米沢藩の興譲館に入学。7歳の時、父祐順が軍医を志して上京、忠太も番町小学校に入学する。明治22年、東京帝国大学工科大学造家学科に入学、明治25年(1892)に卒業、明治30年帝国大学工科大学講師、明治32年、帝国大学工科大学助教授となる。建築学研究のため、3年間アジア各国に留学し、帰国後に東京帝国大学教授となる。昭和3年、帝国大学を定年。昭和18年、文化勲章を受章する。忠太の主な作品には平安神宮(京都・重要文化財)、豊国廟(京都・秀吉の供養塔)、可睡斎護国塔(静岡県袋井市)、真宗信徒生命保険社(京都・元本願寺伝道院)、祇園閣(京都・現大雲院)、大倉集古館(東京・ホテルオークラ横)、尾崎神社(岩手県釜石市)、上杉神社(米沢市・昭和16年)などがある。昭和29年(1954)2月26日死去。享年87歳。

【参考・引用文献】
 藤森照信編1995『伊東忠太動物園』
 木下直之編1998『博士の肖像-人はなぜ肖像を残すのか-』
 鈴木浩之編2003『伊東忠太を知っていますか』

【協力】
 米沢市 東京大学総合研究博物館(敬称略)