日本三筆のひとり『橘逸勢』の供養塔
804年、最澄、空海ら遣唐使と共に渡り、帰国後、朝廷の世継ぎ争いである承和の変(842年)に連座して伊豆国に流される途中、遠江板築駅にて病死したと記録にある。この時、逸勢の後を追ってきた娘 妙冲はこの地に亡き父を葬り、墓前に庵を結び墓を守ったといわれている。
橘逸勢は平安時代の役人、能筆家で嵯峨天皇、空海と共に日本三筆のひとりであり、特に内裏十二門のうち三門の扁額を揮毫したと伝えられている。
804年、最澄、空海ら遣唐使と共に渡り、帰国後、朝廷の世継ぎ争いである承和の変(842年)に連座して伊豆国に流される途中、遠江板築駅にて病死したと記録にある。この時、逸勢の後を追ってきた娘 妙冲はこの地に亡き父を葬り、墓前に庵を結び墓を守ったといわれている。
橘逸勢は平安時代の役人、能筆家で嵯峨天皇、空海と共に日本三筆のひとりであり、特に内裏十二門のうち三門の扁額を揮毫したと伝えられている。