袋井の復興

宝永4年10月4日(太陽暦1707年10月28日)

宝永地震は、宝永4年10月4日(太陽暦1707年10月28日)午後2時頃、南海トラフを震源として発生した大地震です。マグニチュード8.4と推定されていて、文献に記録された震災としては、当時までの史上最大級だったと言われています。

宝永地震の49日後、宝永4年11月23日(1707年12月16日)午前10時~11時頃に、富士山の大噴火が発生しました。噴火は和暦で12月9日まで16日間断続的に続き、新たに開いた宝永火口から噴出した火山礫や火山灰などの噴出物は、偏西風に乗って静岡県北東部から関東地方に降り注ぎ、甚大な被害をもたらしました。

北原川村には、代々の日記を編さんした記録が残されていますが、そこには、宝永地震に関する記事も載っています。

この史料については、元禄地震のページも御参照ください。

割と長い記事なので、原文は載せませんが、おおよそ以下のようなことが書かれています。

宝永4年(1707)10月某日(後文に「十月四日以後小地震一日一夜五度七度も十日計リゆり」とあることから4日と分かる)の昼八つ上刻半時(午後1時頃)に大地震が起こった。石居えの家は大方潰れたが、昼だったので死者は少なかった。

名栗町では家6軒ばかり潰れた。そのほかの家は大分傾いた。久津部の家も大分潰れ、上貫名でも家がつぶれた。北原川・不入斗には破損の家はなかった。地震の揺れ方には場所によって差があるらしい。

袋井町・掛川は残らず潰れ、袋井では、5、6軒が残った。袋井の(後文に掛川のことが書かれているので、前半部は袋井の被害と推測される)死者は14、5人。負傷者は10人ほど。掛川では4、5人が死亡。見付町・日坂町は何事もなかった。云々。

袋井近辺の被害はこのように書かれています。この後、全国的な被害が列挙されています。随分詳しいですが、飛脚や旅人などから情報を得たのでしょう(元禄地震のページも御参照ください)。「薩摩・四国大分ゆり、死人大分風聞御座候」という記述もあるので、風聞の類も飛び回っていたことが分かります。

このときにできた宝永山のことが、北原川村の記録にも特記されています。

[史料原文]
(前略)同廿三日もかミなりやうどろどろ昼ゟ夜迄仕、同晩ゟ冨士山すはしり口すなふるひゟ火もへ上、石砂さかミ・鎌倉・江戸方風下吹、近所五尺、三尺、壱尺宛砂つもり大分やけ、ふじ近所甲州て、一里の内村里皆にげ、死人も有之、中〻けしからぬ事候。近所なれとも、吉原ゟ西ハ風むき能御座候間、あまり火さき石砂来不申候。同極月八日迄焼、八日晩ひしと焼留申候。則冨士山焼吹上石たまり、冨士山のことくの小山出来。則年号以宝永山名付申候。東風下ノ国小砂八寸壱尺、近ハ三尺五尺積、麦作すたり申候。(後略)
[現代語訳]
同(宝永4年=1707)霜月(11月)4日に、雷が西の方にどろどろと終日鳴っていました。これは信濃・越後の震動(の音)で、人が死んだと言います。そのとき、両国の境目の山が焼け、震動したとのことです。
同23日にも雷のように、どろどろと昼から夜まで音がしました。同晩から、富士山の須走口の「すなふるひ」から火が燃え上がり、石砂が相模・鎌倉・江戸の方へ、風下へ吹き、富士山に近いところから5尺(1.5m程)、3尺(0.9m程)、1尺(0.3m程)ずつ砂が積もって、大分焼け、富士に近い甲州では、(富士山から)1里以内の村里の者は皆逃げ、死者もあり、中々ものすごいことになっていました。近所ではありますが、吉原より西は、風向きが良かったので、あまり火や石砂は飛んできませんでした。
同(宝永4年)極月(12月)8日迄焼け、8日の晩に焼け留まりました。すなわち、富士山に焼吹石がたまり、富士山のような小山ができました。そこで、年号から「宝永山」と名付けました。東風下の国は、小砂が8寸~1尺、近いところでは3尺や5尺も積もり、麦作が廃れました。

文面を読む限り、北原川村から噴火は見えなかったように思われます。

ところで、宝永の富士山噴火は、後世にも大きなインパクトを残したようです。

大正7年(1918)7月5日発行「富士登山案内図」

上の写真は、大正7年(1918)に発行された富士登山案内図です。

このころには、宝永山は噴火していませんでしたが、宝永山が噴火しているように描かれています。宝永富士山噴火が地元に強い印象を残していたことが分かります。

さて、話を北原川村の記録に戻しますと、北原川村の記録には、袋井の復興に関する記事もあります。袋井の復興については、江戸の丹嶋屋という業者が請け負いました。

[史料原文]
同其年暮町〻地震つふれ申候。御 領所之町も公方様ゟ御普請被成被下、 大名四頭御手つだひ付、 三月切御普請御座候。前代なき事候由御座候。袋井町普請壱万四千両ニ江戸町人丹嶋屋請、又袋井町人惣町普請修覆五千八百両丹嶋屋ゟ請わけ、手前 普請御座候。岡津山丹嶋や少〻木うけ袋井申候。
[現代語訳]
同(宝永四年)暮れに、町々が地震でつぶれました。御領所の町も、公方様の方で御普請してくださいました。大名4人もお手伝いをして、3月までの御普請でした。前代にないことです。袋井町の普請は1万4千両。江戸町人丹嶋屋が請け負い、また、袋井町人惣町普請修覆費用5千8百両を、丹嶋屋から請人にわけ、手前普請で修覆しました(手前普請は、自費で普請すること。ここの場合、前文、後文とのつながりを考えると、江戸丹嶋屋から、袋井町の地元の業者に修復費用5千8百両を分配し、地元業者によって修復した、ということであろう)。岡津山から丹嶋屋は少々材木を受け、袋井へ売りました。

史料原文でところどころ文字の間が空いているのは、「闕次」という、昔の敬語の一種です。

請負金額(入札金額)は1万4千両。その内の5千8百両を、丹嶋屋から、袋井の地元業者に分配し、地元の力で復興しました。これは宝永5年(1708)の閏正月中に行われましたが、復興に取りかかるのに丁度良い時期を見計らった、とのことです。

江戸幕府が入札に参加する業者を指名し、落札した業者に大名から普請を請け負わせる、という仕組みは、元禄地震のときに、荻原重秀が幕府の財政難の中で考え出した方式です。袋井の普請でもその方式が用いられたようです。

【参考文献】
①永原慶二『冨士山宝永大爆発』(吉川弘文館、読みなおす日本史、2015年、初出2002年)。
②中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会『1707 富士山宝永噴火報告書』(2006年)。
③下重清「過去の災害に学ぶ(第11回) 宝永4年(1707)富士山噴火」(『広報 ぼうさい』No.37、2007年)。
④北原糸子「元禄地震の江戸城修復と大名手伝普請」(『国史学』218、2016年)。