江戸の地震情報が袋井に

安政2年10月2日(太陽暦1855年11月11日)

〔安政地震経過書付〕安政江戸地震

安政東海地震の翌年、安政2年10月1日(太陽暦1855年11月11日)夜四つ時(午後10時)ころに、江戸を中心に大地震が発生しました。こちらは安政江戸地震と呼ばれています。

鶴松村の、安政4年(1857)以降に書かれた書付(〔安政地震経過書付〕)を見ると、そこには、安政江戸地震のことも書かれていました。

[史料原文]
□□其年も明安政二年乙卯夫より段〻春も過、夏も過、九月廿八日くれ六時分又地震ニ而早立之家ハひつミおやし、明十月四日夜凡四ツ時分江戸大地しんニ而、人死の分数万人と云事、数を知らす。当郷ハ申達共格別なるハなけれ共、長地しん也。
[現代語訳]
□□その年も明けて安政2年乙卯(1855)。
それから段々春も過ぎ、夏も過ぎ、9月28日の暮れ六つ(午後6時頃)時分にまた地震があり、急いで立てた家はひずんで「おやし」(壊れ)、明けて10月4日の夜、およそ四つ(午後10時頃)時分に、江戸大地震にて、死者は数万人といい、正確な数は数え切れないほどだったという。当郷(鶴松村)は言うほど特別なことはなかったが、長いこと地震があった。

史料引用文の前半、9月28日の地震は、安政東海地震に関連した地震のようです。

他の地域の史料にも登場していて、9月28日の地震は、安政東海地震の後に起こった一連の地震の中では、大分大きな揺れだったようです。

安政江戸地震に関する記事は、史料後半の「明十月四日夜凡四ツ時分江戸大地しんニ而……」という部分です。

被害者の数などは不明ながら、発生時刻など、基本情報は比較的正確なデータが袋井にも入ってきていたようです。

見ると、「当郷ハ申達共格別なるハなけれ共、長地しん也」(当郷(鶴松村)は言うほど特別なことはなかったが、長いこと地震があった)とあり、袋井(鶴松村)には、安政江戸地震の被害は無かったものの、揺れだけは長いこと続いていたようです。

江戸時代における、こうした遠隔地の災害情報の伝達には、海道を行き交う飛脚や旅人が大きく関係していました。

特に飛脚は、災害による荷物の被害状況を把握するため、災害の正確な情報を集めていて、その情報自体も重要な商品となりました。

「ひつミおやし」

ところで、〔安政地震経過書付〕の引用文に、「ひつミおやし」という表現がありました。

「ひつミおやし」の「ひつミ」は「ひずみ」(歪み)。では、「おやし」とはなんでしょうか。

「おやし」は、「おやす」という動詞で、遠州弁です。「壊れる」「壊す」の意味で、「体をおやす」、「腰をおやす」というように使うこともあります。

幕末~明治くらいになると、文献資料にもちらほら方言が姿を現しはじめます。

〔安政地震経過書付〕もそのような史料のひとつです。方言学にそれほど詳しくない身としては、「面白いな」と思うだけですが、方言学を学んでいる方には何かの参考になるのではないでしょうか。

【参考文献】
①堀井美里「政治情報にみる飛脚の意義―幕末期加賀藩を事例として―」(『加賀藩研究』3(0)、2013年)。
②高槻泰郎「近世日本における相場情報の通信技術」(『電子情報通信学会誌』100(9)、2017年)。
③矢田俊文『近世の巨大地震』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー463、2018年)。
④杉森玲子『「江戸大地震之図」を読む』(角川選書629、2020年)。