安政東海地震、北原川村の被害

嘉永7年11月4日(太陽暦1854年12月23日)

嘉永7年11月4日(太陽暦1854年12月23日)午前9時頃、紀伊半島南部の熊野沖から、遠州沖、駿河湾内に至る広い海域を震源として、安政東海地震が起こりました。その約31時間後の11月5日の午後4時頃に、紀伊水道から四国にかけての南方海域を震源として発生した安政南海地震と合わせて、「安政東海・南海地震」と呼んだりします。マグニチュードは8.4程とされています。

その翌年、安政2年10月2日(太陽暦1855年11月11日)夜四つ時(午後10時)ころにも、江戸を中心に大地震があり、こちらは安政江戸地震と呼ばれています。

安政東海・南海地震は、南海トラフを震源とする大地震で、100-150年周期で発生すると見られているため、研究者からも注目が集まっています。

安政東海・南海地震の特徴は史料が多いことで、全国に大量の史料が残っています。内閣府の報告書が出された2005年当時、歴史地震の史料集の中から、安政東海・南海地震関係の史料を集めただけで、総計3000ページに及んだと言います。

なお、「安政地震」という名称について、前述のとおり、地震発生は嘉永7年11月4日(太陽暦1854年12月23日)であり、一連の震災を受けて、嘉永7年11月27日(太陽暦1855年1月15日)に「安政」と改元したので、「嘉永七年の東海地震」と呼ぶべき、という主張があります。

北原川村の安政東海地震被害については、嘉永7年(1854)付け『地震書上帖』という史料にまとめられています。

その、安政東海地震被害に関する部分を抜き出してみます(該当箇所の写真はこのページの冒頭に掲載)。

[史料原文]
        松平美作守知行所
一、惣家数七拾六軒之内
   倒家      三拾弐軒
   潰家      四拾四軒
   潰土蔵     四ヶ所
   倒土蔵     三ヶ所
   死亡      三人
右之通奉書上候処、相違無御坐候。以上。

  嘉永七年
   寅十二月
(後略)

総家数76軒の内、「倒」が32軒、「潰」が44軒ですから、北原川村の建物はほぼ全て、何らかの被害を受けたようです。

江戸時代の災害被害の表現は今日のものとは異なりますが、上の引用文から、「倒」と「潰」が違う被害状況であることが分かります。

後の1944年東南海地震では、災害復興に際して「家起し」という作業を行っていました。この震災を体験した方にうかがったところ、潰れて上部が落ちてしまった家ではなく、将棋倒しになった家屋を起こす作業を「家起し」と言ったそうです。

そのことを参考にすると、「倒」は将棋倒しになった家、「潰」は上部が下に落ちる形で潰れた家、ということかな、と考えられます。

ところで、『地震書上帖』には、先に引用した部分に続いて、以下の記述があります。

『地震書上帖』より 目付の通行のため、被害情報を収集している
(前略)
  嘉永七年寅十一月四日四ツ時大地震ニ付
 同十二月十二日夜掛川宿ゟ廻状来ル。文言左之通リ。
此度駿府表地震ニ付、
御城内外損所仮御締向其外近国取締見分為御用当表罷在候処、三州矢作橋其外地震之節破損ヶ所為見分罷越候。道中筋宿〻村〻家〻潰家其外有之候ハヽ、自分并御小人目付通行先ヘ左之通書付ニ致し可差出候事。
右之通り雛形別ニ有之候ニ付、潰家其外雛形通リニ相認、掛川宿問屋ヘ同十三日ニ差出し申候。
            遠州山名郡
                北原川村
(後略)

「後略」とした後には、北原川村の人たちの署名が続きます。

長いので、申し訳ないのですが、上では本文のみの引用としました。

『地震書上帖』宛先

後ろの方の宛先を見ると、徒目付伊庭保五郎、小人目付柴沼三七に宛てられています。

掛川宿問屋に被害情報を集積しているようですが、目付が移動するに際して、通行できる場所や通行予定箇所の被害情報を先にまとめておくために、情報集積をしていたということのようです。

こうした、領主側の主導による情報収集の他に、安政東海地震では、飛脚が重要な情報源となっていました。飛脚は、荷物のみならず、普段から様々な情報を運んでいます。相場の情報や政治情報が多くやりとりされていました。

例えば米価は、江戸時代においては、場合によっては飢饉、餓死者にもつながります。そのため、米価については、その情報を速報する専門業者もあり、米価情報が商品として広く流通していました。

政治情報は、中央の政治事件が地方へもすぐ届けられるなど、これまた広く流通していました。藩お抱えの飛脚便などでは、飛脚が情報を集めて国許に送ることもあったようです。

災害時においては、飛脚はいち早く災害情報を各地に運ぶ役割を果たしていました。元禄地震についての重要史料である『祐之地震道記』にも、元禄地震の時に、飛脚が各地の情報を伝えていたことが記されています(「元禄地震」の項を参照)。

災害で焼失した荷物などについて、飛脚問屋と荷主はどちらが損害を負担するのか。それは重大な争いとなりました。そのため、飛脚は正確な災害情報を求め、飛脚問屋も、収集した情報を刷り物にして配付。顧客などとも情報共有をして裁判に備えました。自分たちに有利な情報ばかりかな、と思いきや、飛脚の情報はかなり正確だったようです。

江戸時代にも、災害情報は津々浦々に広まっていました。江戸時代はかなりの情報社会です。

しかし、江戸時代から明治初頭までの史料を見る限り、情報を得て、義援金の募集など、何らかの遠隔地の災害に対する支援活動をした、というようなことはほぼ見られません。珍しいことだから記録した、というものが多いようです。

見取村『噺伝記』の伊賀上野地震の記事にも、「余稀成儀故、印置申候」(あまりに珍しいので記した)とありました(「伊賀上野地震」の項を参照)。

災害情報の共有が、災害復興や支援に関わる何らかの運動に繋がるまでには、この後にいくらかの転換が必要だったのだと思います。そうした変化は、明治以降に訪れました。

【参考文献】
①堀井美里「政治情報にみる飛脚の意義―幕末期加賀藩を事例として―」(『加賀藩研究』3(0)、2013年)。
②高槻泰郎「近世日本における相場情報の通信技術」(『電子情報通信学会誌』100(9)、2017年)。
③矢田俊文『近世の巨大地震』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー463、2018年)。