メディアと仏教

明治29年(1896)6月15日

明治24年(1891)10月28日午前6時28分に発生した濃尾地震では、浄土宗や浄土真宗をはじめとして、各宗の僧侶が数多く被災地を訪れ、供養や法会を行いました。

震災の報道が行われ、全国で義捐金などの事業が行われる中で、仏教諸宗も、教団としての義援活動を行いました。供養や法要はその活動の一環で行われたものです。

濃尾地震、そしてその報道が、仏教諸宗に新たな時代の活動を行わせました。この変化がより一層の展開を見せたのが、明治29年(1896)6月15日に発生した明治三陸地震津波でした。

明治29年(1896)6月15日、三陸地方の村々は、前年の日清戦争の勝利を祝うべく、凱旋兵とともに端午の節句を祝っていました。この日は旧暦の5月5日に当たります。

午後7時32分頃、震度2~3ほどの緩やかな地震の揺れがありましたが、人々は気にも留めませんでした。

午後7時50分頃、潮が異常な速さで引きはじめ、午後8時7分、約4.5mの津波が来襲。津波はその後6回にわたり繰り返し、海面の振動は翌日の正午頃まで続いたといいます。この津波による死者は2万2千人と言われています。

明治三陸地震津波は、一見袋井市と関わらないように見えるかもしれませんが、実は、袋井の関係者が色々と関わっています。

明治三陸地震津波の被害に遭った袋井市関係者には、例えば、当時、岩手県の釜石製鉄所にいた、袋井市村松出身の横山久太郎がいます。

さて、前述のとおり、濃尾地震では、被災地の救済活動が報道されたことで、当時の仏教者たちは、「自分たちには何ができるのか」と強く考えました。

濃尾地震の際、仏教界では、僧侶は災害救護に従事し、死者に対しては追悼供養を行い、生者に対しては困窮を救助すべきだ、あるいは、講演会を開いて義捐金を募ろう、といった、具体的な慈善活動の方策が提言されていました。この時の提言が実行に移されたのが、明治三陸地震津波でした。

この時の、東北における仏教者の活動を、主に新聞から詳細に集めた研究では、宗派を問わず協力して、死者の供養や、法話による慰問をおこなっていたこと、また、寺院を、仮病院や災害支援拠点、遺体安置所、小学校の仮校舎として活用していたことが明らかになっています。

袋井でも、明治三陸地震津波に際して、何かをしようという仏教者の動きがあったようです。

明治29年(1896)8月16日付け「海嘯横死者追弔会執行御届」を見てみましょう。

「海嘯横死者追弔会執行御届」
[史料原文] 
   海嘯横死者追弔会執行御届
過般三陸ニ起リタル大海嘯横死者追弔ノ為メ、本月廿四日午後第二時ヨリ当山本堂ニ於テ、法会ノ修行、施餓鬼供養并ニ地蔵尊ノ御影三萬枚ノ川流シヲ太田川ニ為シ、普ク悲惨ノ死ヲ遂ゲタル同胞ノ亡霊ヲ慰メント存候間、此段御届申上候也。
 但シ、当日雨天ナレバ次日ニ順延執行可仕候。
         周智郡宇刈村春岡西楽寺前住職
 明治廿九年八月十六日        廣澤宥猛(印)

 周智郡宇刈村々長
    内藤農夫殿

先日三陸で起こった大津波の死者追悼のため、8月24日午後2時から、西楽寺本堂において、法会の修行、施餓鬼供養ならびに、地蔵尊の御影三万枚の川流しを太田川で行い、悲惨の死を遂げた同胞の亡霊を慰めたい、という届出です。

安養山西楽寺は袋井市春岡に位置する新義真言宗の古刹です。この文書は、当時の前住職廣澤宥猛が役所に提出した届出のため、役所の文書を引き継いだ袋井市歴史文化館に所蔵されています。

宥猛は前住職ですが、実は、宥猛の次の住職、連 存教が、東京都小石川区大塚坂下町護国寺中真言宗新義派大学林の教師になり、東京に行ってしまったために、当時、前住職宥猛が臨時で寺務代理を務めていました。明治28年(1895)10月29日に、宥猛は、再度住職となります。

宥猛は、春岡にいながらも、何か自分にもできることを、ということで、亡くなった人たちの供養を行ったのだと思います。

役所への届出ですから、宥猛の思想的なことの詳細は、直接的にはよく分かりませんが、それは贅沢な望みというもので、こうした行動の記録が残っているだけでも、十二分に情報があると言えます。

今見た「海嘯横死者追弔会執行御届」のように、濃尾地震から本格化した、メディアによる全国への災害報道は、遠隔地の大きな被害に対して、地方にいる人にも行動を起こさせるものでした。

濃尾地震や明治三陸地震津波から、近代の防災や義援活動が始まりました。

災害に対する義援活動は、この後の災害で体系化されていきます。

ちなみに、義援金募集については、この後、20世紀初頭に、国際的契機があり始まりました。

1902年のマルティニーク島プレー火山噴火に際して、明治政府は、パリに駐在していた本野一郎公使からの情報によって、海外では、他国の災害に対して弔意を表明し、義援金を送るなどすることが文明国の務めとされている、という知見を得ました。

本野の進言により、天皇からの義援金がフランスに贈られましたが、その後、義援の動きが日本国内に広がり、美子皇后(後の昭憲皇太后)や、政府高官や家族の夫人、駐日外交官夫人が発起人となった義捐金募集が始まりました。

【参考文献】
①工藤俳痴「横山久太郎翁傳」(阿久津壽太郎発行・編輯『横山久太郎翁傳』日本製鐵株式会社釜石製鐵所産業報国眞道會、1943年、袋井商工会議所創立二十周年記念事業実行委員会2013年複製)。
②中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会『1896 明治三陸地震津波 報告書』(2005年)。
③中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会編『1891 濃尾地震』(2006年)。
④岡村健太郎「[論説]明治三陸津波と昭和三陸津波の災害復興政策に関する比較研究」(『歴史地震』第31号、2016年)。
⑤佐藤千尋「明治三陸大海嘯における宗教者の活動について」(『東北宗教学』8・9巻、2018年)。
⑥長谷川雄高「濃尾地震における浄土宗の活動について」(『歴史地震』第33号、2018年)。
⑦川口淳「明治三陸地震津波の時、仏教者は何を語ったのか?」(『東海佛教』第64輯、2019年)。
⑧土田宏成『災害の日本近代史 大凶作、風水害、噴火、関東大震災と国際関係』(中公新書、2023年)。