歴史的大震災と袋井
大正12年(1923)9月1日
やさしい解説
関東大震災は、大正12年(1923)9月1日午前11時58分に発生した大地震です。マグニチュードは7.9。
10万棟を超える家屋が倒潰し、山間部では土砂災害が発生、沿岸部では津波被害が発生しました。東京や横浜などでは大火災が発生し、火災による被害がかなり大きかったようです。
この災害での犠牲者は10万人を超え、被害総額は、地震による直接的な損失のみで55億円とも100億円以上とも言われています。
濃尾地震の翌年、明治25年(1892)に、文相の下に震災予防調査会が設置され、ここから、地震に関する調査、研究が本格的に始まりました。
震災予防調査会の研究成果に基づいて、東京帝国大学地震学教室の大森房吉教授と今村明恒助教授らは、社会に向けて地震に関する知識や対策を発信するようになりました。
明治38年(1905)9月、今村は『太陽』に「市街地に於る地震の生命及財産に対する損害を軽減する簡法」を発表しました。
この論文は、東京での大地震発生の可能性と被害の予測、その対策の必要性を説いたものでしたが、この論文はセンセーショナルに受け止められ、デマの発生などにつながってしまいました。
大森は沈静化のため、今村の論文を「浮説」と批判しました。そのため、今村の信用は傷付き、大森と今村の関係も悪化しました。
このことは、東京を襲う大地震を危惧した今村の警告が活かされないまま関東大震災を迎えることにつながりました。今村が論文で起こりうる被害として挙げ、対策を訴えたことは、実際に関東大震災で起こっています。
最近の研究では、大森は、今村の著書『地震学』(1905年)の広告がセンセーショナルに過ぎ、帝国大学、学問全体の品位を貶め、信用を損なう、として、今村を否定したことが分かっています。
さて、関東大震災ですが、大正12年(1923)9月1日午前11時58分に発生した大地震です。マグニチュードは7.9。10万棟を超える家屋が倒潰し、山間部では土砂災害が発生、沿岸部では津波被害が発生しました。
東京や横浜などでは大火災が発生し、火災による被害がかなり大きかったようです。この災害での犠牲者は10万人を超え、被害総額は、地震による直接的な損失のみで55億円とも100億円以上とも言われています。
関東大震災は、被害調査報告や各地の郷土史料が残されていますが、史料によって被害実数がまちまちで、数値データがうまくまとめられない、という課題がありました。これは、被害集計の単位や集計時期がバラバラで、重複もあることによるのですが、史料の相互比較により、数値を整理する研究が進められています。現在、関東大震災の死者は10万5千人程か、とされています。
関東大震災では、徳川貴族院議長や渋沢らによる「大震災善後会」が民間の義援活動の中心となりましたが、最終的に、様々な個人、団体からの義援金は大変な額が集まりました。国内からの義援金品は合わせて約7447万円、国外からの義援金品は約4157万円、計約1億1600万円が集まりました。なお、大正12年度の国家予算の一般会計は約13億5千万円でした。
関東大震災では、関東甲信と静岡の一府九県に被害が出たとのことですが、袋井市――少なくとも浅羽では被害が無かったようです。浅羽常設委員『集会議事録』大正12年(1923)9月1日条には、震災に関する記述はありません。震災に関する記述が見られるのは、『集会議事録』の同年9月7日条です。
[史料原文]
九月七日
一、震災地ヘ全郡ニテ一万円ヲ出ス事。
慰問袋ニシテ平等ニ一戸白米一升ヲ入シテ午前九時迄ニ集会所迄氏名ヲ記入シテ出ス事。但中間ニテ出ス人ハ二名ヲ記入スルヿ。
震災地成ルヘク行ク事ヲ見合ス事。
一、書翰ノ件ハ〈清水町水産試験所内静岡県救護事務御中〉ト記入事。
明八日壱日ニ限リ役場ニテ取扱ヲ致ス事。
一、郡商人野菜及其地ノ物品ヲ買収ニ来リタル時ハ便宜ヲ与フル事。
但シ疑問ノ者ト認メタル時ハ、役場ハ注意ヲ得クルヿ。
一、旧集会所売却済ニ付、解家ノ件報告ス。
一、消防ニテ救護ヲ勉ムル事ヲ報告ス。
(後略)
※〈 〉内は細字双行
最初の一つ書が直接的な震災関係の記事です。震災被害地に、全郡(山名郡)で1万円を出す、また、慰問袋も送るとのことです。震災地へはなるべく行かないように、という注意書きもあります。
『集会議事録』同年9月23日条には「震災地ヘ救助米贈与ニ付知事ヨリ謝状是アリ報告ス」とあり、この義援活動について、知事(どこの知事かはよく分かりません)から感謝状があったそうです。
義援活動を行ったのは浅羽常設委員だけではありません。
梅山の『大正十二年九月一日大震災 東京市外 震災罹災者義捐者氏名』によれば、梅山(東浅羽村梅山)では111人(抹消されている人物を除く/常林寺・萬松院など寺院も含む)からの義援金があり、また、24名から28点の着衣の寄付がありました。
市内の他の地域ではまだ関係史料は見つかっていませんが、同じような義援活動が行われていたであろうことは想像に難くありません。
関東大震災では、陸上交通が破壊された中で飛行機の活動が目立ちました。それは、第一次世界大戦におけるヨーロッパでの空襲も連想させ、関東大震災後の復興では、空襲対策も含めた復興、防災対策が練られ、防空演習も行われるようになりました。
また、震災下の治安維持令の制定、そして震災時の虐殺から実行を決意したという虎ノ門事件(摂政宮襲撃事件)を契機とした1925年の治安維持法の成立……
関東大震災は、確実に戦時体制へとつながっていきました。
【参考文献】
①北原糸子編『日本災害史』(吉川弘文館、2006年)。
②中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会『1923 関東大震災報告書 ―第1編―』(2006年、2012年訂正)。
③土田宏成『災害の日本近代史 大凶作、風水害、噴火、関東大震災と国際関係』(中公新書、2023年)。