報徳の精神で貧困から村人を救った人

1829年(文政12年)~1899年(明治32年)

袋井市 市勢要覧:「郷土の偉人」より抜粋

伊藤七郎平は、山中勘左衛門豊平の七男として森町村 ( 現:森町 ) に生まれました。2才で豊田郡一言村 ( 現:磐田市 ) の伊藤善右衛門の養子となり、15 才になると家督を相続して旗本の皆川氏に仕えました。1848 〜 1853年(嘉永年間)に二宮尊徳の門下安居院の教えを受け、報徳主義に傾倒しました。1858年(安政5年)から勤勉に働き、倹約して貯蓄に努め、身の程を知った生活から余剰を生み出し、皆川家の知行地の一言村で荒地の開墾や茶樹植栽、窮民救済を実践しました。

1869年(明治2年)、皆川家を辞して深見村 ( 現:袋井市深見 ) に移り、日照りと干ばつによって疲弊した深見村の財政改革を成功させ、村を復興させました。その実践の成果をもとに、1874年(明治7年)に深見報徳社を、1875年(明治8年)には岡田佐平治らと遠江報徳社を設立して、静岡県西部での報徳運動興隆の契機をつくりました。

七郎平の仕事は、現代風に言うと会社更生法の適用を受けた会社の再建コンサルタントとでもいうことでしょうか。彼は、深見村を中心として多くの村々を報徳思想の普及で救済した功績により深見と見附に頌徳碑が建てられました。