天才書道家
1882年(明治15年)~1969年(昭和44年)
やさしい解説 静岡県磐田郡久努村村松(現在の袋井市村松)に生まれました。子供の頃から書や漢学を学び、10歳の時に県下の小学校を巡って書を披露しました。15歳で独立して全国を旅し、書道の研究をしました。戦時中は東京空襲を避けて長野県に疎開し、戦後も書道の世界で活躍しました。昭和44年に88歳で亡くなりました。
昭和を代表する天才書道家。1882年(明治 15 年)5月 20 日、静岡県磐田郡久努村村松(袋井市村松)に川村東江の長男として生まれました。名は慎一郎、姉2人、妹1人。
3歳の頃から父に書と漢学を習う。5歳の時、代表作「大丈夫」を披露。また、可睡斎方丈西有穆山禅師より般若心経を学ぶ。7歳の時、刮目尋常小学校(現袋井東小学校)に入学、2年間で4年の課程を終了、太田竹城の書塾に入門し3年間学ぶ。
10 歳にて二葉と号し、静岡県知事小松原英太郎の推奨により県下の小学校を豆書家として巡講、模範揮毫し神童と呼ばれる。12 歳の時、明治天皇銀婚式に楷書「孝経」草書「出師表」を暗書して献上天覧の栄に浴す。
1897年(明治 30 年)、15 歳で書家として独立し全国行脚に旅立つ。19 歳の時、小室屈山に師事し号を「驥山」と改号、披露を可睡斎で催した。21 歳の時、高野山に籠もり 100 日間にわたり弘法大師の研究に没頭し、以後、九州、神戸、そして中国に渡り書法を研究しながら、書道界の発展に尽くした。1945年(昭和20年)に東京空襲を避けて長野県篠ノ井町(長野市篠ノ井)に疎開する。昭和 25 年、日展に書道が参加し参与審査員となる。昭和 26 年5月 16 日、書道界初の日本芸術院賞を受賞しました。
昭和 41 年、85 歳で勲三等瑞宝章を授与する。1969年(昭和 44 年)4月6日、88 歳で死去。絶筆「心」を残す。従四位に叙せられる。油山寺に生誕地碑、墓地、驥山門等がある。驥山館には多数の作品が展示されています。
【参考・引用文献】
佐藤靄子 1975『父川村驥山』