弓道を近代スポーツとして普及させた人

1845年(弘化2年)~1926年(大正15年)

長溝の桒原英一家の邸内に「日置流竹林派 桒原又一郎先生碑」がある。碑高120㎝・碑幅63㎝、裏面に建設者桑原源六・鈴木好述・加藤太郎・大原貞治郎ら32名、賛成者竹原又太郎・山下伝太郎ら9名、発起人宮本政一・河村和吉ら6名の名前と、1908年(明治41年)3月に建碑したことを記してある。又一郎はこの3年前に還暦を迎えた。

そして弓術の師赤堀五藤次(56歳・南山村=小笠町)から「竹林派直目録」を伝授された。「右書は当流の秘書・他言仕る間敷事」という厳しいものである。日置流開祖日置弥左衛門範次より同流六世を継いだのが江戸時代初期の石堂竹林如成、この如成が新たに創始したのが竹林派である。又一郎は、同派の十一世を継ぐ者として免許目録を授けられ名前が登録されている。まさに、弓術の奥義をきわめ、その最高峰に達した者といえよう。又一郎には「誓文之事」という入門誓約書を以て正式に門人となった者だけでも約100人、特に田方郡から小笠郡に多い。浅羽や近隣町村の者は入門手続きをすることなく気安く指導をうけていたのではないだろうか。碑面に見る建碑関係者47名のうち約40名が浅羽の住人、邸内に矢場を設けて日々の修練に励んだ人たちである。浅羽における弓道の最も隆盛を極めた時代であり、それはまた桒原又一郎の偉大な力によるものであろう。

【参考】
 柴田静夫 2000『浅羽町史』