みんなのために新しい道を作った人

1845年(弘化2年)~1899年(明治32年)

高塚太郎平は、弘化2(1845)年に資産家の長男として磐田郡向笠村に生まれました。父は地頭秋元一学の役人を勤め、西村、竹之内、新屋、岩井に土地を持っていました。25才の時に父が病没すると幼名栄吉から太郎平を襲名し、翌年には戸長に当選、6年間勤める間に自費で学校(現:磐田市立向笠小学校)を建設、養蚕や製茶など地域の産業の発展にも努めました。当時、浜名郡笠井地方が織物業をはじめとして取引市場を開き発展するのを見て、向笠村の発展には東海道を迂回しないで笠井に直接通じる道路が必要と思い、37才の時に原野谷川に掛かる同心橋の西側(現:袋井市国本)から笠井町(現:浜松市)を通過し奥山半僧坊(現:浜松市)に至る道路を造ることを計画、用地の買い上げに着手しました。太郎平は自らの財産を投じて工事を行い、測量や労役も行いましたが、工事半ばで私財が尽き、苦労の末に5年後の明治20(1887)年、東は磐田郡久努村(現:袋井市国本)、西は豊田郡匂坂中村(現:磐田市匂坂中)の天竜川に至る延べ3里半(13km)、幅2間(3.6m)の道路が開通しました。県庁から認められていた通行料を取ることはありませんでした。これにより利便性を得るとともに産業の発展に多大な便益を与えました。人々は太郎平の労苦に感謝し「太郎平新道」の名称を贈りました。