「勤倹貯蓄」を説いて人々の暮らしを豊かにした人
やさしい解説 善六は豊住村の戸長として、災害や貧困に苦しむ村人のために努力しました。彼は貯蓄を奨励し、年貢米を売って税金に充て、残金を貯めました。そのおかげで、2年間の凶作の際に村は救われました。また、学校の建設費用も支援し、村人たちは彼の方法を受け継ぎ、共同で困難を乗り越えました。彼の功績は豊住村に残り、後世にも尊敬されています。
1847年(弘化4年)~1887年(明治20年)
善六は平民村(現:袋井市豊住)の庄屋七郎兵衛家に生まれ、明治8(1875)年、豊住村ができると戸長になった。この村は低地の水田が極めて多く、大雨冠水や洪水による被害は甚大であり、また日照りには用水がなく、干害に苦しむ貧しい村でした。善六は凶荒救済対策と生活の安定に心を砕き、村民に勤倹貯蓄を説いた。時に地租改正、年貢は米納から金納になった。しかし、善六は、従来通り年貢米と称して米を郷倉へ収納させた。米価の高い時を見て売り、その金を納税に充て残金を貯蓄した。1884年(明治17年)から2年続きの凶作にも、豊住村はこの貯蓄金で救済された。
また、1883年(明治16年)、柴学校の豊住分校新築に際し、その費用300有余円は戸数75余りの村民にはに重荷であった。しかし、貯蓄金があったのでその建設も楽にできた。村人は善六の始めた積米方式を永く続けようと「豊住凶荒貯蓄組合」を結成、積米倉庫を新築した。明治・大正を経て戦後の厳しい供出米もこの「積米」によって、完納を果たした。
1879年(明治12年)「豊住夜学会」を創設、青年教育と幣風の善導に努力した。1889年(明治22年)、豊住では「謹誌舘石氏之遺績」碑を常楽寺に建てその功績を永く伝えている。
柴田静夫 他 2000『浅羽町史』より