防災のはじまり

明治24年(1891)10月28日

明治24年(1891)10月28日午前6時28分、福井県南部の山奥から岐阜県西部を縦断して愛知県境に達する、80kmに及ぶ断層のずれが地表に現れました。この断層のずれによって起こった震災が濃尾地震です。

マグニチュードは8.0。明治以降の近代日本が遭遇した初めての巨大地震であり、日本における地震防災の出発点となった大災害です。それまでの日本の内陸で発生した最大級の地震と言われています。

この時に出現した断層のずれは大きく、岐阜県根尾村(現岐阜県本巣市)には、高さ六メートルの断層崖が出現しました。

濃尾地震では、当時新しく登場した写真や石版画といった新メディアが、新聞報道などを通じて災害の様子を克明に紹介しました。この時、ありのままを写す写真に加え、取捨選択により、災害の悲惨さを強調できる石版画によって、報道に大きなインパクトが生まれたと言われています。

こうした報道により、濃尾地震では全国からの義援金の募集がなされました。このことは、後の災害復興にも大きな影響を与えました。

また、濃尾地震で忘れてはならないことは、この災害をきっかけに、明治25年(1892)6月25日、震災予防調査会が発足したことです。震災予防調査会は、防災対策のための国の機関としては、世界的にも早い時期のものです。濃尾地震の大きな影響は、この災害をきっかけにして、防災という考え方が強く意識されたことです。

防災は、その後の諸災害、そして、関東大震災を経て、現代に繋がっています。

この濃尾地震関係の史料が袋井市内で唯一残されているのが、宇刈・春岡です。

震災予防調査会が成立する少し前、明治24年(1891)11月に、帝国大学は、加藤弘之総長名で、各県、各省へ、震災についての24項目の調査を実施しました。この調査が、静岡県から郡へ、さらに各村へ依頼されたものをはじめとして、一連の調査と回答の写しが、宇刈の文書に残っています。

そして、帝国大学は、過去の震災のデータ、それも、経験者が存命の可能性が高い安政地震についても、全国的にデータを集めました。

それまでの、災害の言い伝えを語り継ぐ、という災害情報の継承から、より網羅的、学問的に、過去の災害に学ぶ、災害教訓という考え方が強く打ち出されました。

濃尾地震のときに安政東海地震の情報を集めたことが、全国的に安政東海地震の史料が多い理由の一つでもあります。

【参考文献】
①中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会編『1891 濃尾地震』(2006年)。
②長谷川雄高「濃尾地震における浄土宗の活動について」(『歴史地震』第33号、2018年)。