「田形改革必要論」を建白した人
1860年(安政7年)~1917年(大正6年)
やさしい解説 弥三治は若い頃から学び、明治9年に16歳で新堀村の戸長になりました。田畦の不便さを感じ、田形改革の必要性を提案し、国に訴えました。明治34年には自らも良田を提供し、土地の区画改良を実現しました。彼は耕地整理の先駆者であり、大正6年に病没し、大正9年には墓碑が建立されました。
弥三治は幼にして柴村の高橋東平の塾に通い、柴学校ができると入学した。1876年(明治9年)、16歳で新堀村の戸長(村長)になった。1887年(明治20年)、田形不整による農事の不便を痛感、全国農村の田畦を十字形に改革すべきことを元老院に建白し、また「田形改革論」を印刷して、全国の有志や各府県会常置委員等に配布した。
1888年(明治21年)4月、「田形改革必要論」を内閣総理大臣黒田清隆に呈出、「田形改革法案」をこれまた全国へ配布した。1901年(明治34年)年、弥三治の熱意によって、新堀はついに土地の区画改良を実行し、田27町1反、畑1町9反、宅地2町6反ができあがった。このとき弥三治は自分の良田や正田区を代替地に提供し、端田や悪い水田をすすんで自分のものとした。
国では、この2年前の1899年(明治32)年にようやく「耕地整理法」ができたばかりであった。弥三治は、わが国の耕地整理の先覚者の一人であった。1917年(大正6年)病没、59歳であった。1920年(大正9年)、新堀の旧安養寺墓地に弥三治を追慕する人々によって、大きな墓碑が建立された。
柴田静夫 他 2000『浅羽町史』より