「柳」に村を開き、凶作の時、人々を救う

浅岡の近くに松原の小字、柳がある。近年まで家数6軒、どの家も「原」という苗字、田んぼの中のむらであった。路傍に『原孫三郎翁碑』という見上げる程の大きな石碑がある。建立は大正13年(1924)、原門太郎ら9名が記されている。碑は仮名混じり文で約830字、漢学者山下郡次郎(磐田市西島)の撰文並びに揮毫である。柳は松原を隔てる約2㎞、水利極めて悪く、道路また不運、収量は常に他に劣る所だった。孫三郎の青壮年時代は、幕末、社会不安と自然災害(地震や風水害、干害、虫害)による凶作つづき、年貢の重荷に耐えかねて耕地を放棄逃亡する者さえ出てきた。天保7年(1836)暴風雨潮害、大凶作、7割の減収、領主は残る3割についてその4割3分を年貢として収納せよと。米価は暴騰、窮民続出、黙視できない孫三郎は土蔵の米を半値で分売、村人の救済に尽くした。柳は村で最も収穫の少ない地所で、また人家もなかった。こんな世の中が続けば、柳の田畑は棄てられて荒地になってしまう。先人の開拓の労多くして功少なし無にしてはいけない。柳を守るにはここに人家を置くより外にないと思い至った。孫三郎は長女に婿を迎え分家、土地家屋や家財道具まで細々と気を配り柳に住居させた。時に弘化元年(1844)柳の村の始まりである。さらに安政2年(1855)、次男も柳へ分家させた。こうして松原の分村、柳は孫三郎の尽力でできたのである。

(原文 柴田静夫)

【参考・引用文献】
 浅羽町史 2000『浅羽町史 通史編』
 浅羽町郷土資料館 2000『浅羽を拓いた人々 明治・大正・昭和編』

【リサーチ】
 原 久 原三好 堀内篤 原一馬 竜巣院 (敬称略)